サッカー日本代表の長友佑都選手の
若い頃や、実家の情報を調査しました。
長友佑都選手の地元である、愛媛県西条市の
西条祭りとの関係やエピソードも
紹介します。
長友佑都選手の若い頃や実家の情報
出典:© 長友佑都公式Facebook https://www.facebook.com/yuto.n55
長友佑都選手は
愛媛県西条市(旧・東予市)の出身です。
長友佑都選手は
若い頃に、愛媛県西条市で
どのように過ごされてきたのでしょうか?
若い頃や、実家の情報をみていきましょう。
幼少期
長友佑都選手は
・祖父母(父方)
・両親
・兄弟
の3世代で暮らしていました。
兄弟は
・姉(一歳年上)
・弟(二歳年下)
がいて
長友佑都選手は
3人兄弟の真ん中として生まれました。
スポーツ一家の家系で育ち
・母方の祖父と大祖父:競輪選手
・父方の祖父:明治大学出身のラグビー選手
でした。
また
長友佑都選手が暮らしていた父方の実家は
新聞販売所を経営していました。
長友佑都選手は
幼稚園の頃にサッカーを始めました。
サッカーを始めたきっかけは
『サッカーが一番かっこいい』
『好きな女の子にもてたくて』
といった理由を明かしています。
長友佑都選手が幼稚園の頃は
1990年代前半のJリーグ発足直前で
サッカー人気が急上昇していた時期です。
そのため
子供達にもサッカーは人気があり
『サッカーはかっこいい』
というイメージが浸透していたのでしょう。
『好きな女の子にもてたくてサッカーを始めた』
という理由については
子供らしく、純粋な気持ちが伝わってきます。
このように
長友佑都選手がサッカーを始めた理由は
子供として純粋に感じるサッカーに対しての
プラスのイメージであり
子供が抱く感情としては珍しいものではない
ごく一般的なものであったことが
感じられます。
サッカーが一番かっこいいから、女の子にもてるかなって(笑)。サッカーをやってる奴=かっこいいみたいなイメージがあったんですよ。好きな女の子がいたので、サッカーをやろうって思ったのが最初のきっかけかもしれません(笑)。
出典:©公益財団法人 東京都サッカー協会 広報誌 vol.11 巻頭特別企画 https://www.tokyofa.or.jp/magazine/fanews/vol11/
小学生時代
長友佑都選手は
小学3年生の時に、両親が離婚したため
母親の実家の近くに引っ越しました。
母親の美枝(りえ)さんは
冠婚葬祭の司会業をしながら
女手一つで
長友佑都選手ら、3人の子供を育てました。
サッカーでは
小学生時代の長友佑都選手は
フォワードのポジションで活躍しており
県大会でベスト4の成績を収めました。
ドリブルが好きで、当時のプレースタイルは
『ボールを持ったらドリブルで突き進むタイプ』
だったそうです。
現在の長友選手は
サイドハーフのポジションで
ドリブルで仕掛けていくことが得意なため
小学生時代に
『ドリブルメインで練習していた』
ことが生かされているのでしょう。
『わがままにドリブルばかりしていた』
という話しからは
長友佑都選手の子供の頃のやんちゃぶりが
伝わってきます。
また
『わがまま』に行うということは
サッカーに限らず
日本の教育現場においては
否定的に捉えられる事が多いですが
長友佑都選手の成長ぶりや
プロサッカー選手として活躍する姿をみていると
『子供の才能を引き出す』という意味では
重要な事なのかもしれません。
ドリブルばっかりしてましたね。わがままなプレーヤーでした。持ったらとりあえずドリブルみたいな。
出典:©公益財団法人 東京都サッカー協会 広報誌 vol.11 巻頭特別企画 https://www.tokyofa.or.jp/magazine/fanews/vol11/
その後
長友佑都選手は
小学校6年生の時に
地元愛媛県のサッカークラブである
愛媛FCジュニアユースの
セレクション(入団試験)を受けました。
しかし、結果は不合格でした。
このことで、長友佑都選手は
大きな挫折を経験することになりました。
中学生時代
長友佑都選手は
地元の西条市立北中学校に進学しました。
長友佑都選手は
サッカー部に入部しましたが
当時のサッカー部は、不良の溜まり場
だったそうです。
また、小学校6年生の時に
愛媛FCジュニアユースの
セレクション(入団試験)に落ちた事で
自信を無くして
中学校でのサッカーの練習について
最初は適当に行っていたと語っています。
長友佑都選手は
愛媛FCジュニアユースの
セレクションに落ちた事で自身を無くし
自暴自棄(じぼうじき)に
なってしまったのかもしれません。
そして
中学生という多感な時期でもあったことや
小さい頃から『やんちゃな性格だった』
ということも
不良仲間とつるんだり
学校や部活をサボったりしてしまった
理由なのでしょうか。
このように
長友佑都選手のサッカー人生は
決して順風満帆(じゅんぷうまんぱん)
であったわけではなく
紆余曲折(うよきょくせつ)しながら
進んできたことが分かります。
サッカー部が不良の溜まり場みたいな感じになっていたので。練習も適当にやっていて。元々、中学校のサッカー部には入るつもりはなかったんですよ。愛媛FCのセレクションに落ちて入ることになったので。ケンカまではしませんでしたけれど、不良の人とつるんだり、学校や部活をサボったりしてました。ちょっと不良、プチ不良でしたね(笑)。
出典:©公益財団法人 東京都サッカー協会 広報誌 vol.11 巻頭特別企画 https://www.tokyofa.or.jp/magazine/fanews/vol11/
そんな長友佑都選手でしたが
中学生時代に
大きな転機が訪れます。
それは
サッカー部の顧問で、恩師でもある
『井上博先生』との出会いです。
井上博先生は
長友佑都選手が中学校に入学した年に
赴任(ふにん)されました。
井上博先生は、とても熱心な先生で
不良の溜まり場であった当時のサッカー部を
一(いち)から立て直していきました。
井上博先生の熱意により、長友佑都選手は
再びサッカーに打ち込むようになりました。
そして、中学3年生の時に
県大会で3位の成績を残すまでに
成長しました。
長友佑都選手は
井上博先生との出会いによって
人間としての土台が出来たと
語っています。
長友佑都選手は井上博先生から
サッカーの技術だけではなく
意識や考え方に関しても
学ぶところが多かったのでしょう。
そして
中学生時代に培った(つちかった)
意識や考え方が
プロサッカー選手として
継続して活躍するための
原動力になっていると感じられます。
長友佑都選手は、井上博先生に対して
感謝の気持ちを忘れずに
現在も頻繁に連絡をとっているとの
ことです。
このように
井上博先生は、長友佑都選手にとって
精神的な意味においても
非常に大きな存在であることが
伝わってきます。
――井上先生から受けた影響は大きい?
出典:©公益財団法人 東京都サッカー協会 広報誌 vol.11 巻頭特別企画 https://www.tokyofa.or.jp/magazine/fanews/vol11/
長友 それは間違いないですね。頻繁に連絡も取っていますし。中学3年間が自分にとっては大きかった。人間的な土台を作れたという意味で。
このように、長友佑都選手は
中学生時代に、その後のサッカー人生の
基盤を作ることが出来ました。
高校生時代
長友佑都選手は、地元愛媛を離れて
福岡県の東福岡高校に進学しました。
東福岡高校は
全国的に有名なサッカーの強豪校です。
1997年には、公式戦52戦無敗で
史上初の高校三冠
(高校総体、高円宮杯、高校選手権)
を達成しています。
また、ユニフォームの色が赤であることから
『赤い彗星』とも言われています。
長友佑都選手の高校時代は
サッカー漬けの日々でした。
練習時間が長く、男子校だったこともあり
遊ぶ暇やサッカー以外の思い出は
ほとんど無かったと語っています。
長友佑都選手の特徴である
驚異的なスタミナや身体能力は
高校3年間の
厳しい練習で身についたところが
大きいのでしょう。
東福岡高校はサッカーの強豪校であり
長友佑都選手は寮での生活だったこともあり
サッカーに集中するためには
非常に良い環境が整っていました。
そして
長友佑都選手は
中学生時代は、サッカーに対して
真剣に取り組む事が出来ない時期や
横道に逸れてしまうことがありましたが
高校生時代は
継続してサッカーに取り組む事が
出来ていました。
また
長友佑都選手は
高校生時代は無名の選手でしたが
ひたすら練習に打ち込むことで
その才能を開花させていくことが出来ました。
高校の3年間はアホみたいにサッカーをずっとやってましたね。サッカー以外の思い出がないですもん。朝は5時30分ぐらいに起きて、グラウンドに行って、走ったり筋トレをして。そこから学校に行って4時ぐらいに終わるから、そこから部活の練習。3時間ぐらい練習した後に居残り練習をするんです。だから、プライベートが入り込むスキなんてないんですよ。しかも男子校だったから(笑)。共学だったらちょっとは思い出もあったかもしれないけれど、全くないです。
出典:©公益財団法人 東京都サッカー協会 広報誌 vol.11 巻頭特別企画 https://www.tokyofa.or.jp/magazine/fanews/vol11/
このように
長友佑都選手は
中学生や高校生の頃に
指導者やサッカー環境に恵まれたことで
プロサッカー選手として活躍するための
基礎を築くことが出来たと
みることができます。
高校卒業後は明治大学に進学しました。
大学在学中にJリーグデビューを果たし
プロサッカー選手としての
スタートを切りました。
長友佑都選手と西条祭り
出典:© 長友佑都公式Facebook https://www.facebook.com/yuto.n55
長友佑都選手は
地元である愛媛県西条市の『西条祭り』に
幼少期から関わり
想い入れが強いことでも知られています。
・『西条祭りとはどのようなお祭りなのか』
・『長友佑都選手と西条祭りの関係やエピソード』
について調査したのでみていきましょう。
西条祭りとは
西条祭りは
江戸時代から現在まで続いている
『伝統的な秋のお祭り』です。
穀物が豊かに実ることを
神様に感謝する行事で
地元の4つの神社のお祭りの総称です。
多くの市民がお祭りに参加するため
お祭りの期間中は
地元の会社や学校が休みになったり
地元から離れて暮らす人達も
帰省して参加するなど
西条祭りは
地元の人達に深く愛されています。
西条祭りでは、巧みに作られた
さまざまな屋台が数多く登場し
賑わい(にぎわい)ます。
西条祭りの
賑わい(にぎわい)や華やかさは
『豪華絢爛(ごうかけんらん)』と言われ
毎年多くの人々が集まり
盛大に行われます。
長友佑都選手と西条祭りの関係やエピソード
長友佑都選手は西条祭りが大好きで
とても思い入れが強いことを語っています。
幼少の頃から、西条祭りに参加し
慣れ親しんできました。
そして、地元や西条祭りへの
深い愛情と感謝の気持ちを
2022年のワールドカップ前の
インタビューで語っています。
西条まつりは、長友佑都選手の
アイデンティティ(その人らしさ)を
形成するうえで
とても大きな存在になっていることが
伝わってきます。
長友佑都選手から伝わる熱い想いは
西条まつりから引き継がれている要素も
大きいと感じられます。
僕は15歳まで愛媛で育ってきて、西条まつりもすごい大好きで。今でもyoutubeで西条まつり見たり、 子供の西条まつりの歌を歌えたりとか、それぐらい強い思いを持ってます。
たくさんの方々が愛媛で応援してくださってるのは聞いてるんで、とにかく、愛媛の魂と西条まつりの勢い、僕がお祭り男になったのも西条まつりだと思ってますので、とにかくお返しできるように頑張ります。
引用:©livedoor NEWS 2022年11月3日 日本代表選出の長友佑都「絶対にあの悔しさをこのカタール大会で晴らす」 https://news.livedoor.com/article/detail/23138255/
このインタビューをみると
心の優しさや
地元への感謝の気持ちを忘れない
といった
長友佑都選手らしいところが
とても感じられます。
長友佑都選手が
多くの人々に愛されている理由が
伝わってきます。
また、長友佑都選手は
2022年ワールドカップの
ドイツ戦で勝利した後
恩師の井上博先生に電話報告をしました。
その際
『お祭り男』であることを
次のインタビュー記事でも語っており
長友佑都選手の
西条祭りへの強い想いが感じられます。
長友佑都選手は
ワールドカップでは控えメンバーとして
ベンチで待機している時間もありましたが
インタビュー記事でも述べているように
『お祭り男』として
チームを盛り上げている姿は印象的でした。
長友佑都選手は
ワールドカップカタール大会において
『ブラボー』(イタリア語で「すばらしい」の意味」
という言葉でチームを盛り上げ
その様子は
多くの方々に強い印象を与えました。
このように
チームを盛り上げる長友佑都選手の姿は
西条まつりにより培われた(つちかわれた)
要素が大きいように感じられます。
井上さんが「西条のだんじりパワーは出せたか」と尋ねると、長友選手は「間違いないです、お祭り男ですから」と応じ、「愛媛の代表として誇りに思って、また次の試合に頑張りたいなと思います」と話していました。
出典:©NHK NEWS WEB(愛媛 NEWS WEB)2022年11月24日 https://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20221124/8000014574.html
終わりに
長友佑都選手は
一流のプロサッカー選手として
ご活躍されている一方で
若い頃は苦労されており
周囲の人に支えられながら
成長してきました。
長友佑都選手の
周囲の人への感謝の気持ちや
地元への愛情を感じることが出来ました。
今後も更なるご活躍を期待しましょう!
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